個別のファンドの運用成績を投資信託委託会社とは独立した立場で評価する会社のこと。過去の実績を基にその会社ごとの評価基準で評価し、星の数や数値などで表す。ただし、運用期間や純資産などの条件を満たすファンドだけを対象にしている。 先物取引の勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。 フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。 ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は、相次ぐ暗殺未遂への対抗からより独裁色を強め帝制への道を突き進んで行くことになる。 1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛みわけのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまいさらに多額の賠償金をフランスに支払せることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、ヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟ジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。 FX、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し、ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度はスペイン王に就けた。しかしこれに対するスペインの反発は激しく、半島戦争(1808年-1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦する(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。スペインの背後には当然のことながらイギリスもついた。7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。 FXがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦いではナポレオンが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れた。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。 この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。 ロシアからの撤退大陸封鎖令を出した事でイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンはロシア遠征を決行する(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。 フランスは、同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入したが、兵站を軽視したナポレオン軍は、ロシア軍の広大な国土を活用し徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落し、モスクワをも大火で焦土とされたことで、ナポレオン軍はとても留まっておられずに総退却となった。冬将軍もロシアに最大限に味方して、数十万のフランス兵がロシアの大地に散った。無事に帰還してこられたものはわずか5千であったという。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされる始末であった(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。ナポレオンはクーデターの報を聞き、撤退する軍よりも早く帰国する。この途上でナポレオンは、大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世の様にはなりたくない」と洩らしたという。かつて広大な領土を有していたスウェーデン王国は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身はポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命する羽目となり、1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化、没落してしまった。 この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟には元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子に就いていたカール14世ヨハンのスウェーデンも参加していた。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦にもちこむ。メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、秋のライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。