投資顧問契約に基づき、投資家に株式や債券など金融商品の銘柄や売買のタイミングなどの助言を行う業務。または投資一任契約や投資顧問契約の締結の代理・媒介を行う業務。 くりっく365、パーヴェル・ペトローヴィチ大公(のちのロシア皇帝パーヴェル1世)とヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲンの娘マリア・フョードロヴナ(ドイツ名ゾフィー・ドロテア)の第1皇子としてサンクトペテルブルクに生まれる。祖母に当たる女帝エカチェリーナ2世によって、アレクサンドル・ネフスキーにちなんで命名された。 アレクサンドルは生まれてすぐに、祖母であるエカチェリーナ2世によって両親のいるガッチナ宮殿から引き離され、女帝の手元で養育された。アレクサンドルの性格と行動は、以後の環境と教育によってもたらされたものであると考えられている。エカチェリーナは実子パーヴェルと折り合いが悪く、パーヴェルを外して皇孫たるアレクサンドルを帝位につけることも念頭にあったと伝えられる。アレクサンドルは祖母と父との間にあって、上手く立ち回る術を身につけた。 こうした後に狡猾かつ偽善的と言われる性格は、アレクサンドルに施された教育によって一層強くなった。7歳から11年間家庭教師としてアレクサンドルに教育を施したのは、スイス人のジャコバン主義者であったフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプ(ラアルプ)であった。ルソーに心酔し、根っからの共和主義者であったラ・アルプの影響によってアレクサンドルは自由主義的傾向を強く持つようになった。しかし、ラ・アルプによる教育は結婚によって中断され、中途半端な理想論を持たせるだけに終わった。 日経225と並び、傅育官としてアレクサンドルの礼法と健康を担当した軍人ニコライ・サルトゥイコフ大佐からは、ロシアの伝統的な皇帝(ツァーリ)専制の原則を叩き込まれた。若い頃のアレクサンドルはフランス革命やポーランドの反乱に同情的であったが、サルトゥイコフによって、毎週金曜日に父パーヴェルの住むガッチナに赴き、閲兵式に臨席し、自ら中隊を指揮した。パーヴェルの即位後は、以前の人類愛に対する共感は蔭を潜め、冷笑的かつ曖昧な態度を身につけた。 アレクサンドル1世1793年アレクサンドルはバーデン大公女ルイーズ(結婚後はエリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚した。1796年11月エカチェリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位した。パーヴェル1世は貴族層を中心に多くの人々の反感を買い、暗殺が計画された。1801年3月11日深夜から翌12日にかけて、ニコライ・パーニン伯、ペテルブルク総督パーレン伯を中心とする近衛連隊がパーヴェル1世の住むミハイロフスキー宮殿に乱入し、パーヴェルは暗殺された。 パーヴェル1世暗殺に関して、アレクサンドルの役割については歴史家の間で議論が交わされている。アレクサンドルは陰謀について事前に計画を知っていた。また、決行の日を決めたといわれるが、実際に父帝が殺害されたことに対して非常な衝撃を受けた。アレクサンドルは、罪悪感にさいなまれると同時に、父、さらに祖父ピョートル3世の非業の死を目の当たりにし、より慎重になった。1801年3月23日に即位した。 CFDに就いたアレクサンドル1世は、早速「自由主義的」改革に着手した。アレクサンドルは、秘密委員会(Private Committee、「公安委員会」という皮肉な名称であった)を設立した。この委員会は、アレクサンドルの「若き友人たち」すなわち、パーヴェル・ストロガノフ、ニコライ・ノヴォシリツェフ、ヴィクトル・コチュベイ、アダム・イエジィ・チャルトリスキら、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちによって組織された。 秘密委員会はアレクサンドル自身が議長となって、活発な議論が行われた。議論はロシア帝国の改造、すなわち専制から法的秩序の確立のため、憲法を中心とする立憲君主制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革といった問題について討議がなされた。秘密委員会での議論はその多くが空論のまま終わった感があるが、それでもいくつかが具現化された。中央官庁の官制改革が実施され、ピョートル大帝によって創設された参議会(参事会)制は廃止され、代わって外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部(国民啓蒙)、司法、商務の8省庁が設置された。各省には大臣が置かれ、連絡・調整機関として大臣委員会が組織された。 秘密委員会では農奴解放、土地改革についても議論を繰り広げたが、パーヴェル・ストロガノフの農奴解放推進論は結局、1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令を待たなければならなかった。この段階では、1803年2月20日の勅令で領主が自発的に農奴を土地つき、有償で解放し、自由耕作民とするという限定的な内容であった。 アレクサンドルと秘密委員会の構想した改革は、貴族層を中心に保守派の反発を招いた。また、アレクサンドルの「若き友人たち」も現実に直面し、1807年に秘密委員会は解散を余儀なくされた。 1801年に開始された立憲制導入を目標とする法制改革、国制改革は、ミハイル・スペランスキーによって担われることとなった。アレクサンドルから改革案作成を命じられたスペランスキーは、極めて大胆な「国家改造」とも呼べる法制改革案を提案した。改革案では基本姿勢として、憲法の制定、皇帝の下での立法・行政・司法の各国家機関の整備、法の支配による立憲君主制の確立が掲げられた。具体的には、皇帝の任命による国家評議会と、間接選挙による国会(ドゥーマ)の設立であった。 しかし、スペランスキーの国制改革案はあまりにも時期尚早であり、アレクサンドルの姉で帝位に執着を見せていたエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女をはじめ、貴族・官僚層の憤激を買った。スペランスキーへの排斥が激化する中で、アレクサンドルは国制改革の推進に躊躇するようになる。また、アレクサンドルの念頭には、ナポレオン・ボナパルトとの関係悪化があった。アレクサンドルはナポレオンとの対決に備え、国内における対立に終止符を打つ必要性に迫られた。1812年3月、スペランスキーは国家顧問を解任され、ニジニ・ノヴゴロドに追放された。 アレクサンドル1世は、国内政治よりも外政における業績に顕著なものが見られる。事実、アレクサンドルの壮大な想像力は、ヨーロッパにおける諸問題により強く惹きつけられていた。アレクサンドルは即位直後、父帝の中立路線を翻し、1801年にイギリスと同盟した。同時に神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)と同盟を協議し、さらにプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とはメーメル(現在のクライペダ)で同盟を締結した。 こうした各国との同盟の背景には、ナポレオン・ボナパルトの存在があった。アレクサンドルは始め、ラ・アルプの影響からナポレオンに対して敬意を示していた。しかし、フランスを訪問したラ・アルプはナポレオンに、軍事独裁者としての片鱗を鋭く見て取り、帰国後アレクサンドルに対して全否定する報告を提出した。このラ・アルプの酷評に加え、1804年にナポレオンの命でフランス・ブルボン家の王族であるアンギャン公が処刑されたことで、アレクサンドルはナポレオンの野心に恐怖を抱くようにすらなっていた。アンギャン公処刑を契機に露仏関係は冷却化し、国交を断絶するに至った。 1804年12月にフランス皇帝に即位したナポレオンを「ヨーロッパの圧制者、世界の平和の妨害者」として、アレクサンドルは1805年にイギリス、オーストリアと第三次対仏大同盟を結んだ。アレクサンドルが英国に派遣したノヴォシリツェフは、ウィリアム・ピット首相(小ピット)、カスルリー外相に、ナポレオンに対する勝利はフランスを専制者から解放することのみならず、ヨーロッパに平和をもたらす人類の神聖な権利であると説いた。キリストの意志による神の任務を遂行するといった主張には、後の神聖同盟の萌芽が見て取れる。 一方ナポレオンは対仏大同盟の一角を崩すために、ロシアに対してはポーランド人、オスマン帝国、ペルシアと同盟関係を結び、ロシアを牽制した。また、ロシア国内では、アレクサンドルの皇弟コンスタンチン・パヴロヴィチ大公が対仏大同盟からの離脱を唱えるなど、国内にも反対勢力が形成されたが、ナポレオンを「アンチ・キリスト」と見なすアレクサンドルの戦意は旺盛であった。