毎月一定額で金や通貨、株など価格が変動するものを積み立て形式で継続的に購入すること。毎月一定の量を購入していく定量購入に比べて価格変動リスクを緩和できる。 外国為替証拠金取引は行幸中のタガンログ離宮で急逝した。アラクチューエフ体制の下で、青年将校らの秘密結社は急進化していった。アレクサンドルはこうした秘密結社の動きを把握していたと言われるが、晩年になり全てに無関心に陥るようになっていった(鬱病の可能性が指摘されている)。国事行為から次第に身を引くようになり、国政はアラクチューエフ伯に任せて引きこもりがちとなった。また宮廷に聖職者を招き、キリスト教信仰に救いを求めた。 1825年9月、ネフスキー修道院を訪問し、殉教者的な苦行を自らに課していた老アレクセイと親しく会見した。その後、皇后を伴い黒海沿岸のタガンログ離宮に行幸する。11月熱病に罹り、快癒することなく11月19日崩御した。48歳。 アレクサンドルの突然の崩御は、全ての人々にとって寝耳に水の出来事であった。48歳の若さと身体的にはまだまだ健康と見られていたことから、その死を不可解なことと見なし、実はアレクサンドルは生きていて身分を隠して隠棲したとする説も流布された。特にシベリアに現れたフョードル・クジミッチこそアレクサンドル1世に他ならないとする「クジミッチ伝説」が良く知られる。 ロシア国内では、アレクサンドルの宗教的「啓蒙主義」の国内普及という考えは、国家主義、反動政治となって展開された。アレクサンドルは1817年文部省を宗務省を統合し、ゴリツィン公爵を新設された国民啓蒙大臣(宗務国民教育大臣)に任命した。ゴリツィン公については自由主義者との評価・解釈がある一方で、ゴリツィン公により1819年から1821年にかけて新設された帝国大学の閉鎖や、学校教育における自然法、倫理学、論理学の禁止と聖書教育の徹底がなされた。 外国為替は以上のような教育における反動主義の実行者であったが、ゴリツィン公でさえも、ロシア正教会からは自由主義的と異端視される傾向があった。ゴリツィン公はアレクサンドル1世の寵臣で元陸軍大臣のアレクセイ・アラクチェーエフ伯爵と権力闘争を繰り広げることとなる。アレクサンドル1世は両者を使い分け均衡を保っていたが、権力闘争の結果ゴリツィン公は敗れ、辞職を余儀なくされた。アラクチューエフは大臣会議、国家評議会、皇帝官房を掌握し、事実上国政を壟断した。アラクチューエフは無知で残忍かつ卑屈な人物であったが、アレクサンドルには忠実で、ナポレオン戦争後の破綻した国家財政再建策として屯田村を創設したが、結果は惨憺たるものに終わった。 幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な為政者になるべく帝王教育を受けた。帝国を統べるために必要なドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・財政など政治的教養を身に付けていった。1855年、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、皇帝の座についた。戦局は悪化の一途をたどり、明くる1856年3月にロシアは敗北を認めパリ条約を結んだ。 クリミア戦争の敗北はロシア支配階級に大きな危機感を抱かせ、ロシア弱体化の責任は既存の国家体制が抱く「立ち遅れ」に求められた。資本主義化・工業化のような経済発展、自由主義的な社会改革こそがロシアを救うと考えられたのである。農奴制について述べた「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」という言葉が示すとおり、アレクサンドル2世自身はこうした国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想を以って改革に臨んだ。このため自由主義者とは改革に対するヴィジョンに最初から齟齬があった。 まず政府は旧弊な社会制度の象徴とされた農奴制の解体に着手し、1861年2月農奴解放令を発布した。長期的に見ればこの解放はロシアに工業発展の成果をもたらしたが、その実感は1860年代後半になってから現実のものとなったのであり、解放直後は不十分だとする不満が農民に根強かった。また解放は約4700万人の農民の管理が地主から政府の手に移ったことを意味し、この社会的変化に対応するべく地方自治機関としてゼムストヴォが設置された(ヨーロッパ・ロシア地域のみ)。この機関は地方貴族に地方への影響力を残すと同時に国政参加の機会を与えたが、それでも児童教育・保健事業・貧民救済といった社会の影の部分に目が向けられた。 改革は多方面に及び、1864年に断行された司法権の行政権からの独立を始め、国家予算の一本化、徴税請負制度廃止、国立銀行創設といった政府内の構造的近代化・効率化のための施策が矢継ぎ早に行われた。またナショナリズムの要たる国民教育に関しても、ゴロヴニン文部相のもと、1863年の「大学令」で大学を自由化し、翌1864年の「初等国民学校令」「中等学校法」は無償の基礎的公教育を保障した。後任で保守派の代表格であるドミトリー・トルストイ伯爵も教育改革を熱心に推進し、1871年に女性が教員や公務員となることが許可された。ロシアは女子教育に関しては西欧諸国をはるかに凌いでいた。軍事面での改革は陸相ドミトリー・ミリューチン伯爵の努力に負うところが大きい。ミリューチンは1867年に軍規を大幅に整備し、1874年には全身分の男子に対する徴兵制がしかれた。ただし装備などは西欧列強と較べると、いまだ格段に質が悪かった。また聖務会院も変革を期待し、ロシア正教会への働きかけを強めた。 しかしこうした改革は帝国に完全な安定をもたらすことは無かった。ポーランドではアレクサンドルの治世初期から自治を求める民族主義運動が活発で、デモが頻繁に起きた。ポーランド側は1862年に与えられた部分的な自治権には不満で、ついに1863年の年明けには一月蜂起が発生し、帝国各地の民族意識を刺激してリトアニア、ベラルーシやウクライナでも反乱が起きた。こうした騒乱の鎮圧には1年以上がかかり、ポーランドは自治権を失って、ヨーロッパ・ロシア各地域におけるロシア化政策が強化された。こうした動きや、保守派の政治家が政権に参与し始めたこともあって、アレクサンドルの改革は1860年代後半から反動化したという評価が一般的である。しかし改革は全体的には続行されていたという説も存在する。 アレクサンドル1世アレクサンドル1世は、人間として多くの美点を有する人物であった。美男子であり、愛嬌に富み、友情に厚かった。また、社交性に富み、ウィーン会議ではその人となりと華麗な立ち居振る舞いからひときわ目立った。他人の言葉に良く耳を傾けていたが、一方でそれは青年期まで受けた教育の影響で、優柔不断かつ曖昧な態度となって終始した。 ナポレオンはアレクサンドル1世の人物を早くから見抜き「北方のタルマ(フランソワ・ジョゼフ・タルマ(Francois-Joseph Talma)、当時の有名な俳優)」、「ビザンツ時代のギリシャ人」と呼び、「知性、優雅さ、教育を備えている。彼は魅力的だが、彼を信頼することはできない。彼は真心が無い。帝国衰退の時代のこのビザンツ人は抜け目なく、偽善的で狡猾である。」と評していた。 アレクサンドル崩御後のロシアには、スパイと秘密警察、不明瞭な帝位継承法、離反する軍隊、武装蜂起の絶えざるポーランド、偽善によってむしばまれた教育制度とロシア正教会、破綻する経済と社会の遅れを象徴する農奴制が遺された。アレクサンドルの崩御によって帝位は空位となり、この空隙をねらってデカブリストの乱が引き起こされることとなる。